小田原城
山中城
名胡桃城事件の直後、天正17年11月24日、
秀吉は、北条氏直への宣戦布告状となる長文の書状を発した。
そしてそのわずか半月後の、12月10日、
秀吉は聚楽第で、小田原征伐の軍議を行った。
秀吉に服従した諸大名が参陣を命じられ、未曾有の討伐軍が編成されることになり、
秀吉の出陣も翌年の3月1日と発令された。
ドラマで石田三成が言ったように
「戦が始まると誰も止められない。あっという間に転がりだした」のである。
ましてや、秀吉は北条を攻め滅ぼす好機を狙っていたのだ。
天下統一事業の最後の詰めとして、秀吉の並々ならぬ決意により
着々と準備が進められていった。
小田原征伐の総勢は20万人以上に及び、
本隊17万人 (豊臣秀吉、秀次、徳川、織田、蒲生、黒田、宇喜多、細川、池田 等々)
北国口2万3千 (上杉、前田、真田)
水軍1万 (長曾我部、九鬼、脇坂)
兵站も未曾有の規模で、米20万石以上、黄金1万両が用意され、江尻と清水港に運ばれた。
過去、武田、上杉の大軍を退けた天下に聞こえた難攻不落の小田原城で、
北条が籠城することを見越した大がかりな予算であった。
長束正家が兵站の総奉行であったが、もちろん石田三成も官吏として
この大金と大軍を統制管理しなければならず、腹が痛くなった可能性があったかもしれない。
(確か、三成は関ヶ原合戦でもお腹を壊したエピソードがあったような・・・)
真田昌幸も12月聚楽第の評議に参列し、
前田利家、上杉景勝の指揮する「北国口」隊に配属された。
徳川家康の与力でありながら、本隊に属さないのは、異例であった。
小牧長久手の役の際、家康を裏切った石川和正ですら、
小田原攻めの際には、本隊に配属されているのである。
昌幸の上洛時にこのブログでも書いたが、
真田昌幸は、形式は徳川の与力であるが、豊臣秀吉は直臣に近い扱いを受けている。
これは、真田信繁が人質として大坂に出仕していることも、関連しているであろう。
ライバル徳川家康を牽制した、秀吉らしい人員配置である。
豊臣秀吉は、聚楽第評議で発令した予定の通り、
天正18年3月1日に京都を出発し、
翌月の4月3日には、小田原に陣を進めている。
最初は早雲寺に陣をしいていたが、北条家の重臣、松田憲秀の内応により、
小田原城の西南、笠懸山に石塁を築いた。
これが一夜城とも呼ばれる石垣山の陣である。
秀吉は、石垣城で長期包囲作戦を取り、北条の首をじわじわと絞めていった。
自軍の大将達の倦怠を防ぐためという見地と、北条親子の戦意を削ぐため、
陣中での酒宴、遊行を認め、京と堺から商人や茶人を招くだけでなく、
秀吉は側室の茶々を小田原に呼び寄せ、諸大名にもそれを許した。
利休主催の大茶会や、茶々を連れての箱根の温泉旅行など、
前代未聞の華やかたる陣中となった。
そしてわれらの真田家であるが、
天正18年3月上旬、真田昌幸と信幸は上田城をから出陣し、「北国口」軍に合流した。
北国口軍の陣容は、上杉景勝1万、前田利家1万、真田昌幸3千 等 であった。
碓氷峠から上野へ入った北国口軍は、北条氏の重臣、大道寺政繁の守る松井田城を攻めた。
その戦況について、真田昌幸と信幸は秀吉にこまめに書状で報告を上げており、
秀吉からもそれに応えて、小田原の戦況を、これもまたこまめに知らせてきている。
その秀吉からの「小田原攻略記」ともいえる数枚の書状が、真田家に大切に保管されており、
小田原合戦の貴重な資料となっている。
秀吉と昌幸は共に筆まめで、文通相手のような不思議な関係にあった。
(一方、この当時より、家康と昌幸との手紙は皆無である。)
また真田信幸も父に倣って、秀次へ陣中見舞いの書状を出しており
た豊臣秀次から信幸あての書状も残されている。
尚、小田原征伐に関する真田昌幸、信幸あての豊臣秀吉書状はとても興味深く、
小田原攻めのリアルな様子が伝わってくる大変貴重な資料であるが、
枚数もあり、とても一度には書ききれないので、別途記事にしてご紹介したいと思う。
ここでは、概要を抜粋してみると、
4月14日の秀吉からの書状では、
本隊の小田原城攻めの軍勢は十分なので、小田原へ急ぐ必要はない。
心静かに、松井田城を攻め、敵を討ち果たすように命じている。
松井田城を四方から攻め、猛将 大道寺政繁が降伏して城が落ちたのは、
それから1週間後の、4月20日であった。
昌幸は、次いで、城主が逃亡した上野の箕輪城を受け取った旨を、秀吉に報告している。
そして秀吉からその返書が4月29日付で発せられている。
内容は、農民の帰住を固く申付けるとともに、
関東の風習として、城中下の女、子供の人身売買の禁止を固く命じている。
朝鮮の役や秀次事件の非情さとは裏腹の、秀吉の二面性であろうか。
実弟の秀長が秀吉の狂気を抑えていたと言われているが、
大河ドラマでは、寧さんと大坂城を守る病身の秀長の姿が描かれており、
わずかなシーンながらも、豊臣家の悲劇の予兆のようで、感じ入ってしまった。
北国口軍は、上野の諸城を次々と落とし、
北条氏邦が守る武蔵の鉢形城を取り囲み、6月14日にこれを落城せしめ、
6月23日には、武蔵の八王子城も攻略。
これにて、北条の敗北が濃厚となったのである。
北条の城が次々と落とされていくなか、
唯一最後まで落ちなかった城が、「のぼうの城」として有名な「忍城」である。
石田三成を総大将として、直江兼続、真田信繁(幸村)が先鋒として
攻撃に加わっている。
次回はここも描かれるのでしょうね?!
三谷幸喜版「のぼうの城」、楽しみである。
ところで「攻略」の回で、真田信繁が黄母衣衆として描かれている。
秀吉の黄母衣衆は、馬廻り衆から抜擢されていたので、あながち間違いとは言いがたい。
ただ、小田原城に単身直談判に向かったのは、黒田官兵衛で、
ついおととし、岡田准一君が小田原無血開城を熱演していただけに、
ここで信繁にその代役を務めさせるのは、正直ちょっと無理があったように思える。
ただ、信繁の小田原城潜入以外のシーンは、細かいところも含めて
ほとんど史実を描いていたのは、さすが三谷さんらしい。
石垣城の、秀吉、家康の立ちションシーンも史実。
でもそこにひとひねり加えて笑いをとるのも三谷さんらしい。
関ケ原合戦までの真田信繁(幸村)に関しての資料は、本当に少ない。
長丁場の大河ドラマで描くには、ある程度の想像と創造が必要だ。
だからこそ、無名のはずの真田信繁が、
石田三成や大谷刑部だけでなく、豊臣秀吉に厚遇され信頼を得ていたことを
その他の資料で推理し想像して作り上げていく作業は、大変であり、かつ面白いと思う。
ちなみに、「攻略」の回で、
秀吉、家康が立ちションしながら、「江戸と関八州を家康殿にお渡しする」と告げるシーンについて
ユーモアもさることながら、別の意味でちょっと感激してしまった。
幕末、徳川家のため忠義を尽くした新選組の近藤や土方は、関八州の八王子同心の子孫なのだ。
つい「新選組!」を連想してにやけてしまった。
しかも八王子同心は武田の遺臣達の末裔である。
佐藤彦五郎を演じた小日向さんと、風林火山の勘助を演じた内野さん・・・ね?!
そして、ネットでも騒がれていましたが、
小田原攻めで秀吉が着用していた青い羽根の陣羽織は現存している。
秀吉の「蜻蛉燕文様陣羽織」
熱海神宮宝物館に所蔵されているそうだ。
伊達政宗の死に装束のエピソードもさらりと描かれていたが、
個人的にかなり好きな話なのでご紹介したい。
(実は過去何度か取り上げています )
関白秀吉による再三の上洛命令も無視し、また「惣無事令」無視して芦名を滅ぼし会津を分捕った伊達政宗。
「伊達家は、鎌倉時代よりの奥州探題の家柄ゆえ・・」という理由で命令を無視し続けた。
秀吉は卑賤の出身。
伊達政宗が振りかざす名門のへ理屈が、秀吉の癇に障ることを知った上での挑発であった。
このとき政宗。若干23歳。
この豪胆ぶり。
しかし、北条攻めは長期戦となり、ただでさえ大名達の懐は厳しくなっていた。
もし、北条を討った後で、東北へ出陣ともなれば、軍の維持費だけでも相当なもの。
秀吉の側近達は、秀吉の暗黙の了解を得て、
伊達政宗懐柔を進めていった。
特に熱心だったのが、前田利家と浅野長政。
前田利家は自身が北国軍の戦陣にあっても、せっせと伊達政宗に書状を送り続けている。
秀吉の圧倒的な軍事力と戦況を知らせ、小田原城はもう落ちる。
落ちてから参陣しても手遅れだ。 と 説き続けたのです。
伊達政宗は、小田原の状況を知るにつけ、
そろそろ腹を決めなければ、伊達家の命運も尽きると覚悟を決めた。
しかし、伊達家は実母・義姫と実弟の伊達小次郎との確執を抱えており、
そのため長期間の遠征ができなかったという事情もあった。
母の義姫は、政宗ではなく弟の小次郎に家督を継がせようと画策。
「小田原への参陣」の挨拶に、義姫を訪れた政宗は、
母の差し出した膳で、あやうく毒殺されかかったといわれている。(異説あり)
政宗は、小田原へ出立する直前、
実弟・小次郎を殺害し後顧の憂いを絶った
同母弟の暗殺・・・
断腸の思いであったろう。
5月9日、伊達政宗は、側近の片岡小十郎らわずか百人ほどの手勢を率いて会津を出立。
しかし、北条領を迂回して甲斐・信濃路を通ったため、小田原へ着陣したのは、6月5日であった。
激怒する秀吉は、政宗を引見せず、箱根の底倉に監禁させた。
秀吉は、政宗を見せしめのため切腹させる腹積もりであった。
しかし、絶体絶命のピンチにあって、政宗は
「今生の思い出に千利休から茶を習いたい」と申し出る。
側室の茶々だけでなく千利休も呼び寄せていたことを政宗は知っており、そこに賭けたのだ。
秀吉の許しを得て利休は、伊達政宗に茶をたてた。
東北の田舎侍と思われていた政宗は、見事な茶さばきで対応
千利休は、政宗の風雅に、見事も魅了されたのであった。
利休だけでなく、前田利家も、浅野長政も、伊達政宗と秀吉との仲介を続けるうちに
この若者に惚れこんでしまっていた。
政宗の魅力は、彼ら側近達からも秀吉に伝えられ
ひとたらしの秀吉は、俄然、政宗に興味をもち、直接謁見することとなったのだ。
天正18年6月9日、
底倉で監禁されてわずか4日後、
豊臣秀吉は、小田原石垣山本陣で、大勢の大名達と共に、伊達政宗を引見した。
伊達政宗は、髪を切り、白装束で現われた。死を覚悟しているというパフォーマンスである。
派手好きの秀吉も、お得意のパフォーマンスで対応した。
平伏する政宗に向かって太刀(杖とも)を振り上げ、衆目が固唾を呑む中
肩のところでピタリと止め、
「政宗、よく来た!」と一喝、そしてあっさりと許したのである。
秀吉と政宗のこのど派手な引見劇は評判となり
政宗は、一躍人気者となった。
政宗は、秀吉に気に入られたものの、侵略した会津を召し上げられることを、承諾。
そして他の大名達と交誼をかわし数日後、小田原を風塵のごとく去っていったのである。
これぞまさしく、伊達者!
秀吉の惣無事令に違反しながらも ボタンを掛け違えた北条氏政との
運命の分かれ道であった。
TOP写真は、2015年7月に登城した、小田原城と山中城。
どちらも小田原征伐で落城した城。
【小田原~三島の旅】
特に山中城は素晴らしい史跡で大感激しました。