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秀吉と昌幸の上洛①~真田丸私的備忘録13

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大河ドラマ真田丸・『秀吉』の回から、本格的に大坂が舞台となり、
秀吉、寧々、茶々、三成、清正、秀次、吉継、利休・・・
戦国時代の有名人がずらりと登場して、画面が一気に華やかになってきた。

しかし、さすが三谷さん!と感銘を受けたのは
マイナーすぎる秀吉と真田昌幸との関係をしっかりと描く意思をみせつけたからだ。

この『備忘録』シリーズの前回で、秀吉と昌幸の関係につて
秀吉から上杉景勝宛の書状で「表裏者」というワードで紹介してみたが、
正直個人的には面白いとおもいつつも、マイナーなので
「この辺りの史実はたぶんスルーされて、すぐに名胡桃城事件に突入するよなあ」
と思いつつ、ブログを書いていた。

しかし・・・
しっかりと、しかも2回に渡って、しっかりと描くつもりだとわかり (*明日の『表裏」はまさにその話)
三谷幸喜さんの本気度に改めて感服した。

「真田」に関係ないからと「本能寺の変」も「山崎合戦」も「清州会議」もスルーして
一方「真田」にかかわる史実だからと、マイナーすぎる「昌幸の上洛」に焦点を当てるとは
その勇気と根性に感服します。

ならば当ブログも、昌幸の上洛までの史実を、秀吉の書状からご紹介したい。

(*長くなるので2回に分けます)

『備忘録12』でもご説明したが、
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/68796787.html 『表裏者』と呼ばれた昌幸

家康への懐柔のtめ、家康の真田昌幸への敵愾心を利用して、家康の「真田攻め」を認める一方で
昌幸の庇護者であった上杉景勝には、真田救援を禁じる命令を出していた。

ちなみにドラマ「秀吉」の回は今ここ


上杉小将宛 羽柴秀吉書状  
(天正14年11月4日付)  山形・米沢上杉博物館蔵

イメージ 1


【釈文】
去年廿一日書状、今日四日、 加披見候、隋而家康於無
上洛者、三川境目ニ為用心、殿下被成御動座、北国衆
其外江州何も宰相ニ相添、関東江可差遺旨相定
候之処ニ、家康上洛候て令入魂、何様にも関白殿次第と申候間、
別而不残親疎、関東之義、家康と令談合、
諸事相任之由被仰出候間、被得意可心易候、真田・小笠原・木曽両三人義も
先度其方上洛之刻如申合候、徳川所へ可返置由被仰候、
然者真田義、可討果ニ相定候といへとも、其方日比申談られ候間、
真田を立置、知行不相違様二被仰定、家康ニ可召出之由被仰聞候、
真田儀条々不届段、先度被相越候時、雖被仰聞候、其方為候間、
真田儀被相止御遺恨、右分ニ可被成御免候之条、
其方よりも真田かたへも可被申聞候、
委細増田右衛門尉、石田治部少輔、木村弥一右衛門尉 可申候也
  
  十一月四日 (花押)
    上杉少将殿

【背景&解説】
天正14年(1586)10月27日、家康は秀吉の再三の要求に応じて、大阪城まで出向き
豊臣政権への服従を誓った。
この書状はその直後、越後の上杉景勝に、家康との会談内容を報じた書状。

家康の服従がうれしかったのだろう。
筆遣いも軽快である。
また秀吉が上杉景勝に、特別な友情を感じていたことがわかる書状でもある。
うれしいことをまずは親友に伝えたい!
そんな感情が長文の手紙に込められているように見える。

そして気になるのは、真田の文字がやたらと登場することだ。
分かりやすいように「釈文」にピンクで色付けしてみたので、その多さをご理解いただけるだろう。

つまりドラマでも有名な「家康の上洛」ではあるが
ほとんど知られてはいなが、その上洛の背景には
真田が大いにかかわっていたのである。


さて気になる「秀吉と家康のトップ会談内容」についてであるが、
本状によれば

●家康に離反した、真田昌幸、小笠原貞慶、木曽義昌ら信濃の三領主を
家康に帰属させると申し渡した。
●真田については討ち果たすことに決めていたが、景勝に免じて許してやるし
その知行も保証してやるから、その旨を景勝からも真田へ知らせてくれ。

と記されている。

上田合戦で手痛い敗北を喫し、大いにプライドを傷つけられていた家康は、
秀吉からの上洛に応じる交換条件として
「真田討伐」と「信濃の小笠原、木曽の再帰属」を要求していたのである。


人質となった信繁の働きもあるのだろうが、真田に肩入れする上杉景勝に
「真田討伐」への同意を得た上で、家康の要求を承諾し、
その結果、家康も上洛に応じたということになる。

だが、最終的には家康の真田成敗は中止となり、
さらに真田昌幸は、領地の安堵を秀吉から保証されて、
徳川配下に復帰することとなったのである。


信濃の田舎大名でしかない真田昌幸であるが、
秀吉を脅かす実力者である徳川家康の大軍を、わずかの手兵で打ち破ったことで
天下人 秀吉からも一目置かれる存在になっていることが、一連の書状で読み取れてくる。

あの冷静な家康が田舎大名でしかない真田成敗を上洛の条件にしているのもびっくりだが、
それは裏を返せば、家康の心の弱みであり、秀吉にとってみれば「つけ入る隙」に見えたともいえる。










秀吉と昌幸の上洛②~真田丸私的備忘録14

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天正14年(1586)10月27日、家康が大坂城で秀吉の臣従を誓った。

秀吉が対面前日に家康の寝所に現れ、平身低頭して「わしに頭を下げてくれ」と懇願し、
当日頭を下げた家康に秀吉が陣羽織を渡したとか、さまざまなエピソードが伝わり
戦国時代のドラマでは欠かせない名場面でもある。

しかしその両者の駆け引きに「真田昌幸」が利用され、
家康上洛の大きな交換条件であったことを、前回までのブログで
秀吉の書状をもとに紹介してみた。

今回は、家康上洛後に、
秀吉が真田昌幸へ直接送った朱印状をご紹介したい。


真田安房守宛 羽柴秀吉朱印状
(天正14年) 11月21日付  長野・真田宝物館蔵

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【釈文】
其方事、家康存分雖有之、於之方 直被仰聞候、
殿下も曲事雖思召候、此度之儀者被相免候条、成
其意早々可罷上候、猶様子可被仰含候、
委細尾藤左衛門尉可申候也

十月廿一日 (朱印)
  真田安房守殿

【内容】
そなた(昌幸)に対して、家康は遺恨があるようだが、こちらで直接家康を説諭してやった。
殿下(秀吉)もそなたを けしからん奴だと思うが、今回だけは許してやろう。
だからすぐに上洛して礼を述べよ。

【背景】

まず驚くのは、家康ですらすでに上洛しているのに、
真田昌幸がまだ上洛していない点である。

ドラマでも、草刈昌幸さんがじらし作戦を飄々と演じていたが
きっと史実の昌幸もあんな感じだったのだろう


先のブログでも触れているが、
家康は「真田征伐」を上洛の交換条件としており、
上杉景勝に釘をさしてまで、秀吉もそれを認めていた。
周囲にも、自分が家康に命じて「表裏者」の真田を成敗させると吹聴していたのだが、
結局、真田攻めは中止となった

この朱印状で、秀吉は、家康を説得して真田攻めをやめさせたのは自分であったと強調し、
そのうえで、上洛して豊臣政権への忠誠を示すように、命令しているのである。

ここで注目したいのは、
家康がなぜ真田攻めを思いとどまったのか、ということ。

何度も書くが、家康は本気であった。
同年、上洛する前の7月には、家康自らが兵を率いて真田征伐の軍を起こし
駿府に至っているのである。

上洛の交換条件として、秀吉からの許可も得ており、なんの支障もなかった。
上田合戦のリベンジだと家康自らの出陣に、徳川軍の意気も上がっていただろう。

ところが、備忘録13で取り上げた、上杉景勝への書状のなかで、真田成敗をやめるように
家康上洛の際、大坂城で秀吉が自ら家康を説得したと書いてある。
真田の庇護者であった上杉景勝に免じて真田と許したともある。

思うに・・・
秀吉は、真田征伐など最初から本気で考えてはおらず、
真田と上杉の関係をダシに、家康を懐柔したのではないだろうか。

北陸の大大名である上杉景勝が、豊臣政権に服従している様子を家康に見せつけ
家康に豊臣秀吉への服従を決意させて、家康上洛に成功し、
さらに、家康との直接会談で、真田征伐の中止を説得することで
今度は、上杉の顔を立てたのである。

家康には「真田を攻めれば上杉も動く可能性がある」などと、言っていたのかもしれない。

結局、家康の真田征伐が中止となったことで
秀吉は真田にも上杉にも、恩を売りつけることに成功したのだ。

義理堅い上杉景勝は、
それでも動かない真田昌幸に「早く上洛するよう」と説得したようだ。

そのいきさつがわかる書状がある。

上杉少将宛 豊臣秀吉朱印状
(天正15年 正月四日付)  山形・米沢市上杉博物館蔵

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【釈文】
追而真田身上事、対其方赦免候、然者上洛之儀、可被申付候通、
得其意候也

正月四日(朱印)
 上杉少将殿

【内容】
真田昌幸のことは、そなた(景勝)に免じて許してやった。
そこで、そなたから真田に上洛のことを命じたとの由、承知した。


人たらしの秀吉らしい、外交術ではないか。


上杉景勝からの説得もあり、
同年 天正15年3月、真田昌幸は自ら上洛して大坂城で秀吉に拝謁し、
秀吉の指示により、帰路、駿府城に立ち寄って、家康に帰属の挨拶をしたのである。


さて、ドラマでは、このいきさつをどのように演出するのであろうか。
秀吉、家康、景勝、そして昌幸の、プライド、意地、そして複雑な駆け引きを存分に描いて欲しいし、
小日向さん、内野さん、遠藤さん、そして草刈さんら芸達者な役者さんたちの、演技合戦もまた
今から楽しみで仕方がない。




豊臣秀吉 過去記事まとめ

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小日向文世さんの「秀吉」、

猿と呼ばれた藤吉郎時代ではなく、関白となってからの秀吉に
むちゃくちゃはまっているのではないでしょうか。

不気味さ冷酷さを併せ持つ陽気な天下人。
MOZUの時の背筋が凍るような冷たい視線を、堺さん演じる信繁は見逃していませんでしたね。

能天気な秀次が、今からかわいそうに思えてきます。。。

そして小日向さんといえば、「新選組!」では佐藤彦五郎を演じていました。
堺雅人さん同様、「新選組!」から出世した役者の一人ですね。

祝・小日向「秀吉公」と題して、
秀吉に関する過去記事をまとめてみました。


http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/52048695.html  太閤堤 現地説明会レポート



http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/66864357.html 戦国時代の城攻めについて



http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/64749013.html 大坂城~山里丸と石垣探訪

http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/58028269.html 秀吉公の功罪~豊国神社と耳塚


http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/37055644.html 竹中半兵衛と「三顧の礼」




秀吉公については、過去の「大河ドラマの感想」でもたびたび取り上げております。
功名が辻、天地人、軍師官兵衛 etc・・・ 
書きがいのある魅力的な人物です
もしお時間があれば、書庫からご覧くださませ

乗り鉄の旅

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うきうき連休が始まりました

今日は息子念願の 乗り鉄の旅

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快晴に恵まれ新緑も綺麗です

早朝6時過ぎから新幹線へ乗り継ぎ、
さて何処に向かっているでしょう

では

出発進行~~

静岡の旅

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連休二日目の本日、5月1日

静岡の史跡めぐりを満喫してきました


まず向かったのは、

駿府城

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徳川家康の城です。

大河ドラマ真田丸で
天正14年のちょうど前回当たりから
家康の居城として舞台になっている城です。


駿府城の後は、

登呂遺跡

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歴史の教科書でも
必ず太文字になっている弥生時代を代表する遺跡です!


詳細はまた別途ブログ記事として
アップしたいですが、



高知の旅も書き終えていないのに、
いつになるのやら…

気長にお待ち頂けるとありがたいです


ちなみに、昨日の旅の目的地は

大井川鉄道でした!


二日間とも晴天に恵まれ
今は、帰りの新幹線に揺られております。

明日は悲しいかな、仕事。
息子も学校。

気持ちを切り替えで頑張ります

大井川鉄道の旅

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昨日は乗り鉄憧れの鉄路
大井川鉄道のSL と アプト式車両を乗り継ぎ 大井川鉄道を全線乗りつくしの旅を
楽しんできました

早朝6時に家を出て
新幹線で浜松まで。
そこから東海道線に乗り継ぎ金谷駅。
そして大井川鉄道に乗り換えて
新金谷駅。

先に予約していたSL急行に乗車しました!
C5644
愛称はポニー

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戦前に製造され、戦中、戦後、平成の今も
働き続ける頑丈な機関車だそうです。

息子は乗り鉄の掟!とばかり
プレートをiPadで撮影してました。

中学入学のお祝いのiPadが、
これからの旅のお供です。


車両内もレトロ。

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大井川鉄道は、近鉄特急や南海電車も
再利用されて、普通車両として走っています。

写真は南海の車両。

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こういうモノを大切に使う精神が
そこかしこに反映されて
今はもう薄れつつある昭和の美徳をかんじさせてくれます。

新金谷から千頭駅までSLに乗り、
千頭駅から
南アルプスアプトラインに乗り換えます。

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アプト式という日本で唯一の機関車に乗ることが出来るとともに、
大井川渓谷や長島ダムなどの超絶景を堪能できる、
乗り鉄垂涎の鉄路です。

あまりの絶景に
山のように写真を撮ってしまいました。

鉄男の息子は、絶景だけでなく、
アプトいちしろ駅での
アプト式電気機関車の接続作業を動画に撮るなど、テンションもMAXでした!

車内には鉄男さん鉄子さんも多く、
息子も気軽に、大井川鉄道のマニア話に花を咲かせたり、写真を見せて貰ったり
しておりました

本来なら、南アルプスアプトラインの終着駅は、井川駅なのですが、
昨年大規模な土砂崩れがあり、
接岨峡温泉駅から不通になっております。

実は息子は秘境駅も好きで、
秘境駅として名高い⁉️尾盛駅にも行きたかったのですが、
残念ながら、尾盛駅も不通区間でした。

復旧予定は、今年の10月との事、
また来る楽しみを残して
帰路につきました。

山のような写真から
一部だけご紹介します。

もし時間があれば、
息子の鉄男らしい写真もいつかご紹介できればと思います。

大井川渓谷の絶景

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長島ダム

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奥大井湖上駅とレインボーブリッジ

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大井川鉄道 SL動輪焼!

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大井川鉄道 SL車内で買った
動輪焼…!



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でかい

しかも、めちゃウマい

後ろは
同じく車内で買った
SL時計


目覚ましアラームは
汽笛とドレーン音

かなりのインパクトで
鉄道マニアならずとも、しっかり目覚めるアイテムでした。…

端午の節句

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今日はこどもの日、端午の節句

真田丸とタイガース必勝を掛けて、

虎丸に赤い兜を被せてみました



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堀田作兵衛とすへ(ネタバレ注意)~真田丸私的備忘録15

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大河ドラマ「真田丸」で
大泉洋さん演じる悩める兄源三郎信幸が、
自由奔放な父や弟の替わりに、家族を見守る優しさが秀逸だ。

前々回で、弟信繁の娘「すへ」と堀田作兵衛に話しかけて
「自分の乳をすわせている」と屈託なく語る作兵衛に
「乳はやめておけ・・・」とちょっと困ったような顔をして答える信幸のシーンは
いかにも三谷幸喜さんらしいペーストとユーモアのあふれるいいシーンだった。


いや、「すへ」はお梅ちゃんの替わりに「私が育てる!」と断言してたじゃないか?きりさん

しかもきりは源二郎に夢中で、華やかな大坂城で楽しそうに暮らしているし・・・
長澤まさみさんが悪いわけではなく、
あえて「うざい」キャラに設定されてしまっているのでしょうね、きりさんは。

高梨内記の娘(ドラマでは、きり)が、真田信繁(幸村)の側室の一人になることは史実であり
高梨内記が真田昌幸の側近中の側近であったことから、信繁とは幼なじみであっただろうこともたぶん本当で、
さらに内記が昌幸に従い、高野山九度山に落ちていっていることから、
きりが信繁に最後まで寄り添った女性であるとの設定も、間違いではなく・・・

つまり、三谷さんは史実からキャラを膨らませていることは、理解もしておるのですが、
でも戦国ヲタクの許容範囲を超えすぎているのですよねあの立ち居振る舞いが 

いえいえ、、もうグチは言いません
きっと、あの「うざキャラ」にも回を追うごとに慣れてくるだろうと、自分を信じております。


さて話をもとに戻しますが、
ドラマで堀田作兵衛の乳をすって大きくなっている信繁の娘「すへ」。
実は、女性では珍しくその名も存在も確認されている実際の人物(少女)である。


ここからは、ドラマ大坂の陣に関する「ネタバレ」もあるので、
もし読みたくない方は、ご注意くださいませ。










真田信繁(幸村)には、大谷吉継の娘と正式に結婚する前に
侍女であったとみられる女性との間にできた娘がいた。

名前は「すへ」。

すへは母(ドラマでは梅)の兄(父という説もある)で、
真田家の家臣であった堀田作兵衛の養女となり、
その後、上田領内長窪(現、長和町)に住む石合十蔵のもとへ嫁いでいた。

関ヶ原合戦で失脚した昌幸、信繁の替わりに
おそらく真田信之が取り持った縁談であったと推測される。

なぜ、「すへ」の存在が確認されているのかというと、
離れて暮らす娘の身の上を案じる信繁の自筆の書状が残されているからだ。

これがその書状である。

石合十蔵宛 真田幸村(信繁)自筆書状 
慶長20年2月10日   石合知子氏蔵

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【訓読】
父子事御安事(案じ)、作兵衛方迄御尋ね尤もに候。
我等篭城の上は必死に相極め候間、此の世にて面識はこれ有る間敷く候。
何事もすへこと心に叶はざる義候共、
御見捨てこれ無きように頼み入り候。
委しくは惣右申すべき候。  謹言。
   二月十日  真左衛門佐
石合十蔵殿


【背景&解説】
すへの夫、石合十蔵は、幸村とともに大坂城に篭城中の堀田作兵衛宛てに、
真田信繁(幸村)と大助父子を案ずる書状を送ってきていた。
その手紙を知った幸村は、娘婿に直接返事を書いていたのである。


「必死の覚悟で篭城中の故、此の世でもうお会いすることもないでしょう。
ただどうしても娘の「すへ」のことが気がかりですので、どうかお見捨てならないよう頼み入ります。」

短い手紙であるが、決死の覚悟と娘の身を案じる親心がしみじみと伝わってくる書状である。

尚、この書状でも明らかだが、
堀田作兵衛は、上田領内から大坂城の信繁(幸村)のもとに馳せ参じていることがわかる。
作兵衛以外にも大勢の家臣達が、幸村の呼びかけに応じて、上田から駆けつけていた。
すへの娘婿である石合家の「申伝書」によると、50騎もの家来が信州領内から馳せ参じたという。

真田信繁(幸村)の人望、人柄、誠実さを物語る重要な書状であり
おそらく、大河ドラマ「真田丸」の後半でも描かれるであろう、重要なエピソードと思われる。

ドラマを見ながら、この「すへの乳吸い」の場面が、
伏線になってくるのではないか?と三谷脚本に期待しつつ、今回、取り上げた次第である。

家康の上洛 ~ 真田丸私的備忘録16

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「再会」は、

信繁と姉 まつとの再会
旭姫と大政所との再会
そして秀吉と家康の再会・・・!


にしても、
上田合戦後、天正14年から15年にかけての家康と昌幸の上洛をとことん引っ張りますね!!!

いやはや、さすが三谷幸喜さん。

以前も書きましたが、きっと昌幸の上洛は1回だけで詳細はスルーされ、
すぐに胡桃城事件へと物語は突き進んでいくと思っていたのですが
あれから4話を費やしても、

まだ昌幸は上洛してません


天正14年から15年の
康上洛と真田攻めの問答は、史実として書状も多く残っており
ヲタク的にはとても興味深く、
個人的には、秀吉、家康、上杉景勝、真田昌幸の心理戦ともいうべき
外交駆け引きが超面白いと思っていただけに、
三谷脚本のこのこだわりが本当にうれしいです。

一連の上洛の駆け引きですでに4話も消費しており
これから、胡桃城事件、小田原征伐、北条氏の滅亡、伏見城普請、信幸&信繁の婚礼、
秀頼の誕生、朝鮮出兵、秀次の死 etc ...
と関ヶ原まで山のように事件が待ち受けているというのに、

ここで4話も使ってしまって、いいのか?大丈夫か?
と逆に心配になるくらいです。


漏れ聞こえてくる情報では、
な、なんと小田原攻めで「忍城攻め」を撮影中だとか・・・!
ああなんてことでしょう。
【のぼうの城】として一躍有名になった「忍城の水攻め」が、大河ドラマでがっつりと描かれるのは
おそらく初めて? なのではないでしょうか?
ちなみに、真田昌幸、信繁父子が援軍として三成のもとに駆け付けております。

この忍城攻めで、『三成の戦下手』を目の当りにしたはずの真田昌幸が
なぜ関ヶ原で三成の誘いに乗ったのか・・・?

そのあたりの考察から、
犬伏の別れは「真田家の陰謀ではないか、と個人的に思っているのですが、
ドラマではどう描くのでしょう??
NHKだし、無難な展開なのか?
いや三谷幸喜さんだから、ひねりを加えてくるのか、
今から楽しみでしかありません。

つか、関ヶ原の後は九度山配流、そして大坂の陣と
さらなるクライマックスを控えてるし、
「真田丸」で2年でも3年でもかけてほしいと、ひそかに願うくらいです


きっと、天正14年の、秀吉、家康、上杉景勝、真田昌幸の駆け引きを
じっくりと描くことで、今後の展開におけるキーマンのキャラクターを
視聴者に植え付けるつもりなんでしょうね~~。

『新選組!』でも、多摩時代や上洛までの経緯に前半のほとんどを使い
隊士の個性をしっかりと描ききってから、後半の悲劇へと突入していきましたね。

キャラが固定すれば、
キャラが勝手に動き出す。

三谷さんの手法は、今回もさえわたっているように思います。

閑話休題・・・


前回の「再会」ですが、
家康の上洛までの経緯を、これまた史実に忠実に、かつユニークな脚色を施して
描いてました。

特に、秀吉の妹、旭姫w
清水ミチコさんの怪演が光ってました!

史実については、
以前、「軍師官兵衛」の感想文で紹介しておりますので、
その部分を抜粋して、再掲載させていただきます。

  

軍師官兵衛 第35回「秀吉のたくらみ」


天正14年、家康上洛での「秀吉の陣羽織」のエピソードは史実です。
家康が秀吉に謁見する前夜、密かに家康の部屋を訪れた秀吉は、家康に「わしに頭を下げてくれ」と懇願し、
二人で一芝居うったのでした。まさに、猿と狸の化かしあい・・・
 
尚、秀吉が家康の上洛を促すため、妹と母親を人質として差し出したのも、史実。
このエピソードはドラマとして描かれていませんでしたが、興味深いので簡単に補足しておきます。
 
 
天正14年、秀吉の妹、旭姫が人質の正室として輿入れしました。
旭は44歳は家康45歳。熟年同志の政略結婚でした。
 
 
面白いのは、家康は旭姫を飾り物の正室として扱ったのではなかったことです。
大切にしたと伝わっています。

家康には数多くの側室がいましたが、高貴な女性好みの秀吉とは違い、
身分の低い女性や、年配の側室も多く美人好みでもなかったようです。
実は旭には、長年連れ添った夫がおりました。
副田甚兵衛(もしくは、佐治日向守)という、橋にも棒にもかからない平凡な男でしたが、
夫婦仲は良く幸せに暮らしていました。
ところが、秀吉により無理やり離縁させられ、その後の消息は不明です。
突然の離縁という上意に怒り、秀吉からの加領の申し出を断わり、切腹したとも言われています。
夫の悲惨な末路に、旭姫は嘆き悲しんだことでしょう。
 
ところが、旭を輿入れさせてもいっこうに上洛してこない家康の煮え切らない態度に、
とうとう秀吉が人質としてさしだしたのが生母の大政所。
秀吉は親戚縁者が少なく、これが豊臣家の政権上の最大の弱点でありました。
秀吉とおねの間には子がいないだけでなく、弟の秀長や旭にも子がいませんでした。
人質として切れるカードが少ないため、実の母親を人質として差し出すという苦渋の決断をしたのでした

母親思いで有名な秀吉が、まさか・・・?
「大政所の替え玉ではないか?」と疑う家康は、旭姫にまずあわせ、その反応確かめたのです。
浜松で対面した母娘は、しかと抱き合い尾張弁で声を掛け合い涙を流していました。
家康は、本物の大政所だと判断し、そこまでするなら、と上洛を決断したのでした。
寺尾聡さんの、家康ぶり。だんだんと本性を現してきましたね!!
天下一の弓取りと呼ばれるほどの戦上巣な上に、権謀術にも長けており、
我らが官兵衛が、彼がもつ叡智のすべてをかけて、人生の最後に覇権を争った男です。
竹中秀吉 vs 寺尾家康の駆け引きも、これからの見所です。



ところで

真田信繁(幸村)が、秀吉の馬廻りとなったのは史実か否か?
じつは不明です。
しかし、多くの小説で、幸村は秀吉の馬廻り衆として描かれております。
それは、田舎武将の次男坊でしかない幸村が
やたらと三成と懇意になり、さらに豊臣政権の奉行である大谷吉継の娘を正室として迎え入れており、
秀吉からは、豊臣姓をもらって官位を与えられるなど、
秀吉とその側近に相当気に入られていることがはっきりと確認できるからです。

最初は 大坂城へ人質として預けられた幸村が
秀吉の身近でお仕えできる職種としての「馬廻り衆」着任は、
100%史実とは確認できないけれども、かなり説得力があると言えるでしょう。


阪神vsヤクルト @甲子園球場

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連休最後の今日は甲子園球場で
阪神 vs ヤクルト 観戦!

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今年2月.
安芸のキャンプへ観に行って
掛布監督の初陣 二軍vsサムソン戦を観て以来の阪神。

いえ、
金本監督指揮する一軍の試合は、
初観戦になります!

超変化のスローガンのもと
正真正銘、
去年までとは全く違うチーム、戦術で、
ファンの期待に応える試合が続いています。

その象徴が若虎戦士!

安芸のキャンプで
目の前で活躍していた選手達、

高山、板山、原口、守屋 …

今や一軍のスタメンに名前を連ねています。彼らの活躍がホントに嬉しい。

特に原口捕手。

背番号がら124 育成ながら
迫力あるヒットを放ち、頑張って支配下登録を勝ちとって欲しいと、
ブログに書いた事が、実現してる事に
感激です。

たゆまない努力の賜物であり
また、掛布 &金本監督のホットラインの
結果でしょう。

あとは、一二三選手の奮起を期待したい。

(その時のブログです!)
掛布監督 祝初陣!

http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/68651288.html



競争の激しいチームは
未来があります。

今日は、初の
能見 原口 バッテリー

ワクワクしながら応援したいです!


追記

試合結果は 1ー5で阪神の負けでした

『上洛』感想~真田丸私的備忘録17

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今回は珍しく?ドラマ『上洛』の感想を書きたいと思います。

真田昌幸の上洛の経緯を描いていたのですが、
上杉景勝による秀吉のとりなしや、上洛への昌幸の説得(ドラマでは直江)など
また、秀吉に拝謁後、駿府へ出向き、家康の与力大名になる旨頭を下げる過程まで
ほぼ史実どおりでした。そこらへんはさすが、三谷さんの脚本です!!



しかし・・・・

真田昌幸の心情についての描写は
どうも納得がいきませんでした

なぜ、昌幸が、急に「井の中の蛙」のごとき、
視野の狭い田舎武将になってしまったのでしょう?

武田が滅亡して以後、織田、北条、上杉、徳川、上杉・・と目まぐるしく主君を変え、
自ら表裏者となって真田家と真田の土地を守り抜いた男が、
急に、秀吉の傘下になることを嫌がり、
「わしはどこで間違ったのだろう?」と息子たちに弱音を吐くほど落胆してしまったのか
納得ができません。

史実でみても、昌幸が秀吉を嫌っている様子はなく
寧ろ、秀吉と昌幸間の書状のやり取りは頻繁に行われており
ホットラインがあったこともわかってます。

そして源三郎、源二郎が言っていたように、
「父上は間違っていません。真田家と真田を守り抜いたのですから。」
それこそが、昌幸の最終目的であり、
秀吉から本領安堵のお墨付きを頂いた時点で、
昌幸の「外交」戦略は、成功したと私は思っております。


事実、上田合戦で、陣中から秀吉に書状を送って援軍を要請しているのは
昌幸自身です。 
そして、木曽義昌、小笠原貞慶と示し合わせ、秀吉による石川和正の寝返り工作に
加担した(と思われる)昌幸です。

真田昌幸宛羽柴秀吉書状 ~ 真田丸私的備忘録10

真田信尹や井浦昌相からの情報で、秀吉の権力の拡大とその器を見込だ上で、
その秀吉にすり寄っていくことに
真田昌幸は何の躊躇もなかったでしょう。


尚、これら一連の史実は、ドラマではすべて割愛されておりました。
おそらく昌幸の上洛に合わせて、昌幸の心情を描くために、
三谷幸喜さんが、敢えて 描かなかったのでしょう。


昌幸の上洛が遅れたのは、
徳川軍からの再攻撃が100%取りやめになるまで、上田城を離れることができなかったと同時に、
「真田」の価値を高めるためのじらし作戦であったと、私は思います。

三谷幸喜さんが、家康の上洛と昌幸の上洛に5回もの放送回数をかけたのは、
真田昌幸の「老い」と、信幸、信繁への世代交代を印象付けるためだったのでしょうね。
そしてそれが、「犬伏の別れ」へとつながっていくのかもしれません。


でも、
おばば様のいうとおり、

真田昌幸は「表裏者」でありならがら、戦もめっぽう強いからこそ魅力的であり、
だからこそ、死ぬまで家康が最も恐れた男なのです。


ちなみに、天正15年3月、昌幸は上洛して秀吉に拝謁し、
秀吉の指示により、上田への帰路、駿府城に立ち寄って、家康に帰属の挨拶をしましたが、
このとき、小笠原貞義も一緒に駿府へ出仕しています。

石川和正の寝返り工作に暗躍した人物を家康の与力とするなど、
秀吉は家康を監視し、抑える意図がありありです。


この後も、家康を介すことなく、秀吉から昌幸へ直接指示を発しています。

例えば、小田原攻めの際、真田軍は徳川配下ではなく、
前田、上杉軍と共に、「北国口軍」の一翼を担っていました。

また、先ほども触れましたが、
秀吉から昌幸への書状が数多く残されているにも関わらず、
家康に出仕して与力となったはずなのに、
家康から昌幸あての書状は全く見つかっていません。


これらの状況から
家康の与力大名というのは形だけで、
実質は、秀吉の直臣扱いであったと言えるでしょう。


昌幸の家康の出仕前の、天正15年2月30日付
秀吉→昌幸への書状は、
信濃における武力による領地争いの停止を命じており、「惣無事令」の先駆けとも言えます。

内容は、
「家康も秀吉に人質を入れ、如何様にも秀吉次第だから、信州も関白秀吉の存念次第だと
よく心得て、矢留せよ。」と命じています。

すなわち、信濃での戦闘を固く禁じ、家康も秀吉の配下であることを強調して
ある意味、真田昌幸の顔を立てているといえるでしょう。


さて、家康、昌幸の上洛後、真田丸はどうなるのでしょう?

秀吉の天下統一事業としては
天正13年、四国平定 (真田家に無関係のため完全スルーされておりましたww)
天正15年に九州平定、
天正16年、北条氏の上洛に伴い、「沼田問題」が再びクローズアップされます。
天正17年、名胡桃城事件が勃発します。
天正18年、小田原攻め

天正16年までは、真田家のホームドラマ(コメディ)になるかな?
小松姫の輿入れもそろそろのようです。
信幸とこうさん夫婦も、ほんわかして好きだったので、
陰ながら夫を支えるこうさんの心情を思うと、もうはやくも複雑な気持ちになります。


尚、名胡桃城事件前後からは、
秀吉から真田信幸への書状も増えてきます。
すなわち、豊臣政権下におけるお兄ちゃんの存在感が増してきている証拠です。

これら秀吉から昌幸、信幸への直筆の書状の多くが真田宝物館に保管されており
関ヶ原後に、真田家が「家宝」として密かに守り抜いた書状でした。

真田信幸も、父のDNAを受け継いだ真の「表裏者」であったのでした。


真田信綱の鎧~真田丸私的備忘録18

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黒漆塗仏二枚胴 (真田信綱所用)
長野・信綱寺蔵
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この、いかにも戦国らしい鎧は、
真田昌幸の長兄であり、真田信幸、信繁の伯父でもある真田信綱の鎧である。

真田信綱は、天正3年(1575)の長篠合戦で戦死した。
この鎧は、江戸時代の享保2年に、
信綱の菩提寺である『信綱寺』の墓のなかから発見されたもので、
信綱戦死時に着用していた可能性もある貴重な鎧である。

激しい戦闘のためか、損傷が激しいが、
金箔も残っており、当時天下無敵を誇った武田軍団 二十四将たる誇りを見るようだ。

昌幸と武田二十四将図~真田丸私的備忘録

真田幸隆の嫡男であった信綱は、元亀元年(1570)年ごろに
父から家督を継承したが、
幸隆の死から1年後の1575年に、39歳で亡くなった。

長篠合戦では、幸隆の次男 昌輝も戦死しており、
そのため三男の昌幸が、真田家家督を継ぐことになったのだ。

真田信綱は武勇に優れ、武田信玄からの信頼も厚く、
昌幸の自慢の兄であった。

信綱寺は、昌幸が兄の位牌を奉じるために建立した寺で、兄弟の厚い絆を感じる。
信綱の官位は「左衛門尉」で 偶然ではあろうが、信繁と同じである。
尊敬する伯父のように強い男になりたいとの願いがあったのかもしれない。

最期、信繁は武勇を天下に轟かせて戦場に散る。


一方、昌幸の嫡子である信幸が「源三郎」なのは
真田家は長男が早死にするジンクスを忌み嫌ったからであり
その最大の要因はやはり長兄の早すぎる死であったことは想像に難くない。
(ちなみに真田信綱の幼名は、源太郎。)

昌幸の祈願が届いたのか、信幸(之)はなんと93歳の長寿をまっとうしたのである。



真田信綱は、信幸の最初の正室 清音院殿(ドラマでは、こう)の父でもある。
つまり、信幸とこうさんは、いとこ同士の夫婦である。

39歳で亡くなった信綱の遺児であれる娘を嫡男の妻とすることで
真田家の系統を守ったと同時に、亡兄の親代わりとなり、遺児を見守り育てたのだろう。

真田家の家族愛の強さは、
親兄弟が殺しあう下剋上の戦国時代にあって、より輝いて見える。

そして『真田丸』での清音院殿=こうさん と 信幸。

幼なじみのいとこ同士らしい、ほのぼのとした雰囲気に癒されますね。
こう が 年上の妻として設定されているのも、的を得てます。

「ごほごほ・・・」と病弱であったかどうかは不明ですけどw

そんな、ほのぼの夫婦に暗転が訪れる。



本田忠勝の娘 小松姫の輿入れで、
正室の座から落とされて、側室となる。


(ネタバレですが、たぶんみなさんご存じですよね?)


しかしそれは言い換えれば、側室としてでも側に居てほしいと願う信幸の愛情であろう。
そして、側室としてでも夫を支えたいと願う 清音院殿の愛情であろう。

尚、真田信幸であるが、
着用していた鎧の寸法などから185cmのモデル並みの長身であったようだ。
しかも、心穏やかなやさしい殿様で、かなりのイケメンもてもてだったのでは?と推測しております。。。。

グランフロントでランチとスィーツ

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旧友と久しぶりの再会

グランフロントで
ランチ

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お茶とケーキ

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美味すぎ
楽しかった


息子は中間テストを控えて
お家で勉強中

…のはず

頑張れ

茶々と聚楽第~真田丸私的備忘録19

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秀吉が聚楽第の門の落書きに激怒して
罪なき門番を処刑したという
非情なエピソードを丁寧に描き、
やがて訪れる秀吉の暴挙、狂気、
そして豊臣政権の崩壊の『前兆』を描いていました。

北政所が
『殿下はなあんも変わとらん。
昔から冷たくて怖いお人じゃ。』
と呟くシーンはゾクっとしましたね。
京香さん、さすがの演技でした。

そして、そんな秀吉の本質を知るもう一人の人物、豊臣秀長…

『病に伏せっている場合じやないの…』

返す言葉が見つからない三成の苦悩。

月の如く兄を支えてきたこの実弟の死もまた、これから起こる豊臣家の悲劇の前兆でありました。

なかなか深みのある三谷脚本、
面白かったです。


さて、ドラマのテーマとなった、
茶々と聚楽第について、
そういえば昔書いたなあ、と思い出し、
軍師官兵衛の感想ですが、
その部分を抜粋して、改めてご紹介したいと思います。

【軍師官兵衛 跡を継ぐ者 感想】
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/67468557.html

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(浅井茶々)

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茶々をめぐる豊臣家の内情について、簡単に説明します。

天正15年(1587) 秀吉は京都に「聚楽第」を建てる。
これは、関白となった秀吉が、貴族として構えた邸宅であった。
翌、天正16年4月14日には、後陽成天皇が、この聚楽第へ御幸され、華々しく饗応。
その席で、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせている。
天正16年から秀吉の側室となった茶々が、懐妊した。
懐妊を喜んだ秀吉から山城国の淀城を賜った茶々は、「淀の方」と呼ばれるようになった。
天正17年、茶々が 鶴松を生む。
秀吉は、初めての嫡子である鶴松を、自分の後継者に指名した。
お世継ぎの生母として、茶々の権威が益々盛んとなる。

ところが、天正19年(1591)、わずか3歳で鶴松が夭折してしまう。
秀吉は嘆き悲しみ絶望のどん底に突き落とされた。
まだ54歳ではあったが、もはや実子は望めないと、自分の甥である秀次に関白職を譲ってしまう。
今で言う、後継者指名である。そして秀次は、聚楽第の当主にもなった。

豊臣秀次は、秀吉の姉・とも の長男で、実子のいなかった秀吉の養子となった。
織田信長と浅井長政が対立したとき、幼い身でありながら、長政の家臣・宮部継潤の元へ
人質として養子に出されている。
浅井氏が滅んだ後、奇跡的に帰還し、秀吉に従い、賤ケ岳の戦い、四国征伐、小田原征伐にも従軍し
それなりの武功を上げている。
つまり、秀吉から後継者指名されるまでの秀次は、それなりの評価を受けていた人物であったのだ。

しかし、「天下人の後継者」という立場が、秀次の人格を変えてしまう。
実は、我らが官兵衛も、関白秀次と関わりをもつことになる。

文禄元年(1592) 文禄の役(第一次朝鮮征伐)で、秀吉の勘気に触れ、朝鮮からの帰国を命じられた官兵衛は、
帰国後、秀吉の命で、関白秀次の「訓導」という役目に就く。

天下人の秀吉が、老骨に鞭打って、名護屋城で朝鮮征伐の指揮に全力を傾けているというのに、
秀次は、関白という要職にありながら、京で遊興三昧の日々を送り、秀吉の居る名護屋城へ
一度も下ろうとはしない、それはどういう了見なのか?
と、官兵衛は、秀次を厳しく諌めているのである。

官兵衛は、秀次の傲慢な態度に、危険を察知していたのであろう。

そして、官兵衛の悪い予感は、当たってしまうのである。

鶴松の死からわずか2年後の文禄2年(1593) 、淀は第2子・お拾(後の秀頼)を産む。
秀吉ならずとも、血の繋がった我が子を後継者にしたいと考えるのは当然だ。

(うるさい?)官兵衛が再び朝鮮へ渡った後、秀吉は、秀次の追い落としを図るようになる。
鶴松逝去で絶望したからとはいえ、一度、世継ぎと決めた後継者を、わずが2年で交代させるためには、
体面上、それなりの理由が要る。
そこで「殺生関白」という話が、まことしやかに流布されることとなるのである・・・
もちろん、茶々の後押しもあったであろう。
しかし、自身の甥っ子でただ一人の姉の息子を、追い詰める秀吉の姿もまた、異常であったろう。
おねの心労もまた、計り知れないのである。

(続きはドラマの進行に合わせてまたご紹介します)

ところで、茶々の息子達であるが、秀吉の種ではなく、不義の子だという噂は
当時から密かにささやかれていた。


正妻、おね だけでなく何百人もいた(300人超えていたらしい)
側室をもちながら子供が授からなかった秀吉なのに、老齢にも関わらず、
何故か茶々だけが身ごもったというのは、できすぎた話だからだ。

また、秀頼は、秀吉に似ず、長身で(180cmもあったそうだ)、大柄色白の
かなりの美男子だったことも、疑惑を助長している。

石田三成が怪しい、という声もあるが、
忠義に篤く、生真面目な三成が、よもや主君の側室に手を出すとは考えられない。

しかも若く美しい茶々は、しかしその高貴な出自ゆえに深窓の奥方であり、
秀吉の目を盗んでの不倫は容易ではなかった。
淀君に近づけた男性は、そう多くはいない。



もし不義の子であるとすれば、最も怪しいといわれているのは
大野治長 という秀頼の側近。
茶々の幼馴染でもある。
そして彼の人生を知ると、茶々との初恋から禁じられた関係、そして永久の愛を
つい想像してしまう。

大野治長(大野修理亮) 1569 ~ 1615年

大野治長は、茶々の乳母、大蔵卿局の子供で、近江の小谷城で育ち
茶々とは幼馴染であった。
茶々が秀吉の側室になると、馬廻衆として秀吉取り立てられ、
秀吉亡き後は、豊臣秀頼の重臣として仕えた文官である。

秀吉亡き後、徳川家康と石田三成の権力闘争に巻き込まれ
「徳川家康暗殺疑惑」の首謀者の一人として、下野国へと流罪となってしまう。

翌年、関が原の戦いでは、家康の監視下にあったため東軍につき、
上杉討伐に参戦したこで、家康より罪を許される。
しかし、豊臣家への忠節絶ち難く、また茶々への思いもあったのだろう、
家康の使者として大坂に入った後、江戸には帰らず、再び、秀頼の側近として
大坂城に居残ってしまう。

1614年11月、大坂冬の陣。
茶々の意向もあり、家康との和議を進める。
ところが相手は狸おやじの家康だ。
翌年、大坂城の堀が埋められる結果となり、治長の詰めの甘さに非難が集中する。
戦術をめぐって 真田幸村と対立したのも、この男である。

1615年、大坂夏の陣では万策が尽き、
家康の孫で、秀頼の正室であった千姫を助けることを交換条件として
豊臣秀頼と茶々母子の助命を家康に懇願している。
しかし、すでに勝利を確信していた家康はこれを拒否。

慶長20年(1616) 5月20日
大坂城内の山里曲輪で、大野治長は、秀頼、茶々とともに自害して果てた。
享年47歳。

家康への最後の懇願といい、茶々と秀頼への特別な愛を感じてしまう。



もし、秀頼の本当の父親であれば、愛する女と共に命散らすのは、本望であったのかもしれない。

おそらく、再来年の大河ドラマ「真田丸」で、必ず登場する人物です。


*************************************
以上、抜粋でした。

ま、大野治長はあくまでひとつの説です。
ご参考程度でお読みください。

大野治長は大坂の陣の重要人物で、
真田幸村(信繁)とも因縁ある役どころ。
同じ馬廻衆ですしそろそろ登場するのかもしれませんね。
キャストは決まったのかな?

でも、その前に、

名胡桃城事件、からの
小田原征伐‼️

真田昌幸が再び主役に躍り出ます。

沼田裁定~真田丸私的備忘録20

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豊臣秀吉は天正13年(1585)に四国を、天正15年には九州を平定し
そして同年、関東、奥羽に『惣無事令』を発した。

惣無事令とは、領主間の武力による争いを私闘として禁じ、
領地紛争については、秀吉が裁定すると定めた命令である。

天正16年には、京の聚楽第に正親町天皇を迎え、
未曾有ともいうべき豪華絢爛な盛儀を執り行い、豊臣家の権威を世に知らしめた。

すなわち、時世は戦国の世に終止符を打ち、
豊臣秀吉の元で新たな秩序による天下国家の到来を体現してみせたのである。

秀吉による天下統一事業の完成はもう目の前であった。

ところが、関東の覇者、北条氏だけはいまだに上洛せず、
北条早雲以来の武力と権威を誇り「秀吉ごときに」という態度を崩していなかった。

天正16年の秀吉からの上洛命令に、当主・北条氏直は応じず、
徳川家康が両者を仲介。
家康の顔をたてるために、ようやく北条氏政の弟である北条氏規(氏直にとっては叔父)が
名代として上洛した。

このとき氏規は、
「真田の沼田領をお引渡し頂けるのれあれば、甥の北条氏直は明年にも上洛します。」
と約束した。
氏直の上洛と沼田領を天秤にかけたのである。


惣無事令は、領地紛争は秀吉の裁定と、自ら定めた経緯もある。
秀吉は、さっそく動き出した。

翌天正17年七月、
真田と北条の長きにわたり紛争の種であった、沼田領問題を決着させるため
津田隼人、富田左近の二人を、検視として沼田まで派遣した。

このとき、秀吉自らが、真田信幸に、
「上田から沼田までの案内と伝馬人足を出すように」と命じている。

これがその朱印状である。

真田信幸宛 豊臣秀吉朱印状
天正17年(1589)7月10日  真田宝物館蔵

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昌幸ではなく、源三郎信幸宛てとしては、初めての秀吉書状である。
信幸も天下人から一人前と認められたと思ったのか、真田家の家宝とし大切に残されていたようだ。
興味深いので、詳しく説明したい。

(訓読)
今後関八州, 出羽、陸奥面々分領、堺目等を立てられるべき為、
津田隼人、富田右近将鑑、御上使として差し下され候。
案内者として同道すべし。
然れば、其の地より沼田迄、伝馬六十疋、人足弐百人 申し付け
上下共送付すべし。
路地宿以下馳走肝要に候也。
   七月十日(朱印) (豊臣秀吉)
       真田源三郎とのへ


「ご馳走用意するのが肝要」という一文に秀吉らしさを感じる。
二人の検視への接待を誤れば、沼田の裁定にもケチがつく。
若殿、信幸は大いに奮発したであろう。
秀吉の「源三郎」呼びにも萌える・・・💛

尚、秀吉が昌幸ではなく信幸に命じていたのは、
ドラマのように真田昌幸が在京していたからと推測されると同時に、
昌幸は、嫡男信幸に領主としての「帝王学」を学ばせており、
実質は、信幸が領地管理をしていたとも推測される。

その後、二人の検視からの報告を受けた秀吉により裁定が下された。

上州の真田領のうち、
3分の2は北条領 : 沼田城、小川城 含む
残り3分の1は真田領 : 名胡桃城、須田城、猿ケ京城含む
岩櫃城は、真田領
真田の減少分の替地として、徳川から伊奈郡箕輪が真田に与えられた。
 
秀吉の裁定は、速やかに実行され、
同年7月26日に、真田は沼田城を北条に明け渡した。

強大な敵から何度も守りぬいた
沼田城を明け渡すことは、
昌幸、真田家にとっては断腸の想いであったろう。

しかし、秀吉に逆らう事はできない。
昌幸はこの裁定を呑んだ。
このとき、家康の重臣である 榊原康政も立ち会いに出向いている。

そして、各城代が入城した。

沼田城 : 猪俣能登守邦憲 (北条)
小川城   :富永助道 (北条)

名胡桃城 : 鈴木主水(真田)
岩櫃城 : 矢沢綱頼 (真田)

この裁定は、かつての徳川と北条の密約などまったく無視した、
秀吉独断の絶妙な振り分けであった。
沼田を明け渡す事で北条の上洛条件を満たしながらも、その実は、真田優位であった。
岩櫃や、三国峠など交通の要所はことごとく真田領となり、
やっと手に入れた沼田城も、名胡桃城から観察されるために
戦略的価値が半減となった。

氏政にしてみれば、まんまと喰わされたような鬱積した気持ちが溜まっていき、
やがて名胡桃城事件から小田原合戦へと突き進んんでいくのである。

ある意味、秀吉による巧みな筋書きであったのかもしれない。


さてドラマでは、沼田の命運をかけた信繁のディベートが描かれるようだが、
実際は、秀吉が現地に検視を派遣させての裁定であった。

秀吉直々の書状で、検視のご一行を迎え入れるエピソードも、ドラマで取り上げて欲しい。
右往左往する源三郎お兄ちゃんと、そんな若殿を支えるために、ちょこまか動く
「元気になった」こうさん。

ツボです。 



  

交流戦! 日本ハムVS阪神 

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本日(6/12) 14:00 から
日本ハムVS阪神タイガース

日本球界の至宝、大谷翔平選手が、DHを外して
投打で登場する予定です。

先週末の巨人VS日本ハム戦で
ピッチャー5番で完投し、日本球界最速の163kを記録したのも記憶に新しいですね。
BSでこの試合を見ていましたが、163Kの電光掲示板を観たときは、
感激しました。
そしてなによりも打者大谷のスイングの速さ豪快さにも度肝を抜きました。
球界を見渡しても、これほどのスラッガーは数えるほどでしょう。

あのイチロー選手が、打者大谷を「メジャーでもこれほどのバッターはいない」と絶賛していましたが
今年のオフにダルビッシュ直伝の筋トレが功を奏しているのでしょうね。

素人目ではありますが、昨年よりも下半身が安定して、軸がぶれておらず
おまけにあのスイングスピード・・・
スラッガーという言葉そのもののオーラー満開でした。

おそらく数年後にはメジャーへ挑戦すると思われ
となると、わが阪神が大谷翔平選手と対戦できるのもあと数回のみ。
まあ、共に日本シリーズで相見舞えることができれば、その回数は増えるのでしょうが・・・

ともかく、本日の対戦、
大いに期待したいです。

特に、大谷VS原口選手の初対決に期待しております。
多分今日も原口選手はDHでしょうね。


そして我虎の岩崎投手、
相手に不足はない、胸を借りる気持ちで頑張れ~~~!!


ブルボンの
猛虎は塩味ポテトで、TV応援します。

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名胡桃城事件~真田丸私的備忘録21

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天正17年(1589)11月
秀吉の裁定により真田の所有とされたばかりの名胡桃城が、
北条の兵に奪い取られる事件が勃発する。

先の沼田裁定でも触れたが、
上野国、利根郡にある名胡桃城は、沼田城の西方約一里半、利根川をへだてて向かい合う城で
沼田城を支える抑えの城であり、沼田城が秀吉の裁定で北条の所有となった今は、
沼田=北条を監視し牽制する城となっていた。

沼田城代で北条氏邦の配下、猪俣能登が突如攻めてきて乗っ取ったのである。

名胡桃城代の鈴木主水の妻の弟、つまり義弟である中山九兵衛の裏切りが発端であった。
中山九兵衛は、沼田城の猪俣能登からの調略に乗せられ、
鈴木主水が7人の家来と共に名胡桃城を離れた隙に、北条を手引きして城を乗っ取ってしまったのだ。

義弟の裏切りに気づいた鈴木主水が名胡桃城に引き返したものの時すでに遅し。
このままでは武士の名に恥じると、かねて懇意にしていた沼田領の正覚寺に入り、
猪俣能登に降伏を申し入れ、猪俣能登と中山九兵衛への対面を希望した。
降伏は見せかけで、その場で差し違える覚悟であった。
ところが敵もその意図を察して正覚寺には現れず、
汚名を注ぐためにもと、鈴木主水をその家来6人は正覚寺で切腹。
主命で主水と6人の介錯を頼まれ、泣く泣く一人生き残った家来(渋川某)は、
正覚寺の住職に鈴木主水と6人の供養を頼み、その足で
岩櫃城の矢沢綱頼に事の顛末を報告し、すぐに上田城の昌幸にも伝えられた。

名胡桃城の惨事は真田家中の怒りを爆発させた。

しかし、このとき真田昌幸の取った行動は冷静そのものであった。
北条による秀吉の沼田裁定と惣無事令への重大違反になるからと、
直ぐさま北条への報復を唱える部下たちの声を抑えて、
外交駆け引きへと持ち込んだのである。

まず利用したのは、徳川家康であった。
事件勃発直後に、真田信幸が徳川家康に、名胡桃城事件の詳細を伝える手紙を出している

その手紙を受け取った家康から、真田信幸への返事の書状が残されている。

天正17年11月10日付
真田信幸宛 徳川家康書状  (真田宝物館蔵)

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(訓読)
来書披見候。然れば、なくるミの事其の意を得候。
左候へば、其の許の様子京都n両使存ぜられ候間、則ち彼の両人迄其の方使者差し上げ候。
定めて披露申されべく候。将又菱喰十到来、悦喜せしめ候。
猶、榊原式部太輔申すべき也。
  十一月十日  家康 (花押)
      真田源三郎殿


家康は、沼田裁定の検使、津田、富田の二人にまず知らせるように信幸へ指示し、
きっとその両人から秀吉に報告されるであおうと、書いている。
榊原康正の名前が出ているのは、沼田城引き渡しの際も立ち会っていたからである。

[ 沼田裁定] で詳細を説明しております 。 ↓

徳川は秀吉と北条の仲介役であり、徳川家と姻戚関係にある信幸からの火急の手紙は
家康の信幸への好感度を上げたことであろう。
犬伏への伏線ともいえる重要な書状と思える。

そして、二人の検使から正式に名胡桃城事件の報告を受けた秀吉は、激怒した。
惣無事令への重大な違反だと、北条征伐を決断する。
そして、被害者である真田昌幸にまず書状を出した。

真田昌幸宛 豊臣秀吉書状
天正17年(1589)11月21日   真田宝物館蔵

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長文の手紙であるが、真田家にかかわる重要な書状ゆえに
訓読を列挙したい。

(訓読)
其の方相抱ふる なくるみの城へ、今度北条境目の者共手遣せしめ、者主討ち果たし、
彼の用害北条方へのっとるの旨に候。
此の比氏政出仕致すべき由、最前御請け申すに依り、たとへ表裏有と雖も

其の段相構へられず、先ず御上使を差し越され、沼田城の渡し遣はし、其の外知行方以下
相究めらるるの処、右動き是非無き次第に候。
此の上北条出仕申すに於いても、彼のなくるみへ取り懸り討ち果たし候者共、
成敗せしめざるに於いては、北条赦免の義これ在るべからず候。
其の意を得、境目諸城共来春迄人数入れ置き、堅固に申し付くべく候。
自然其の面人数入り候はば、小笠原、河中島へも申し遣わし候。
注進候て彼の徒党等を召し寄せ賭け留め置くべく候。
誠に天下に対し抜公事表裏仕り、重々相届かざる動きこれ在るに於いては、
何れの所成り共、堺目の者共一騎懸けに仰せ付けられ、自身御馬を出され、
悪逆人等首を刎ねさせるべき義、案の中に思し召され候間、心易く存知すべく候。
右の堺目又は家中の者共に此の書中相見せ、競べを成すべく候。
北条一礼の旨相違に於いては、其の方義、本知の事は申すに及ばず、
新知等仰せ付けらるべく候。
委曲 浅野弾正少、石田治部少輔申すべく候也。
   十一月二十一日  (朱印) 豊臣秀吉
      真田安房守とのへ




(解説)
上洛しない北条の態度は大変問題があったが、不問とし、
上使を派遣して、要求どおりに沼田城を渡してやったにも関わらず、
このような次第では、たとえ北条が今更、自分の下に出仕しようとも、
その名胡桃城へ攻めかかった者どもを成敗しないことには、許すことはできない。
そして、北条が裁定違反をしたからには、「本地」すなわち、沼田は真田昌幸へ与える。
北条と境界の城を固く守り、
またこの書状を家中に見せてもよいとまで書いている。


豊臣秀吉にとって、名胡桃城事件は、渡りに船ともいうべき好機であった。
沼田裁定後、3か月たっても北条は上洛の約束すら果たしていなかった。
このまま放置していれば、秀吉の威信にかかわる、
東北の伊達などの大名もまだ上洛しておらず、その見せしめの意図もある。
ほころびは少しも許すことはできない。
豊臣政権のためには北条を滅ぼすしかないと、秀吉は決意していたのだ。
けっして怒りに任せての思い付きではなかった。

そして真田昌幸にしてみれば、
沼田城を秀吉のお墨付きで取り返すことができるのだ。
目先の復讐にとらわれず、「惣無事令」を盾にまず家康と秀吉に事件を報告した裏の意図もまた
いかにも昌幸らしい外交駆け引きといえる。

北条家では、「名胡桃城ごとき」と高をくくっていたのであろうか、
秀吉の怒りの激しさに驚き、家康にとりなしを頼んだが、
後の祭りであった。

北条の当主、氏直は家康の娘婿でもあった。
ここで徳川の最大の同盟者である北条を倒すことは、間接的には家康の力をも削ぐことになる。
秀吉にとってはこれほどの好機はなかった。
真田昌幸がそこまで意図して、即座に報告したのかかどうかは不明であるが、
(個人的にはそこまで読んでいたと思います)
名胡桃城事件は秀吉にとって、北条征伐への「大義名分」となる事件であった。

次回は小田原征伐について書いてみたいと思います

小田原攻め~真田丸私的備忘録22

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                             小田原城


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                             山中城



名胡桃城事件の直後、天正17年11月24日、
秀吉は、北条氏直への宣戦布告状となる長文の書状を発した。

そしてそのわずか半月後の、12月10日、
秀吉は聚楽第で、小田原征伐の軍議を行った。


秀吉に服従した諸大名が参陣を命じられ、未曾有の討伐軍が編成されることになり、
秀吉の出陣も翌年の3月1日と発令された。

ドラマで石田三成が言ったように
「戦が始まると誰も止められない。あっという間に転がりだした」のである。
ましてや、秀吉は北条を攻め滅ぼす好機を狙っていたのだ。
天下統一事業の最後の詰めとして、秀吉の並々ならぬ決意により
着々と準備が進められていった。


小田原征伐の総勢は20万人以上に及び、
本隊17万人  (豊臣秀吉、秀次、徳川、織田、蒲生、黒田、宇喜多、細川、池田 等々)
北国口2万3千  (上杉、前田、真田)
水軍1万 (長曾我部、九鬼、脇坂)
兵站も未曾有の規模で、米20万石以上、黄金1万両が用意され、江尻と清水港に運ばれた。

過去、武田、上杉の大軍を退けた天下に聞こえた難攻不落の小田原城で、
北条が籠城することを見越した大がかりな予算であった。

長束正家が兵站の総奉行であったが、もちろん石田三成も官吏として
この大金と大軍を統制管理しなければならず、腹が痛くなった可能性があったかもしれない。
(確か、三成は関ヶ原合戦でもお腹を壊したエピソードがあったような・・・)

真田昌幸も12月聚楽第の評議に参列し、
前田利家、上杉景勝の指揮する「北国口」隊に配属された。

徳川家康の与力でありながら、本隊に属さないのは、異例であった。
小牧長久手の役の際、家康を裏切った石川和正ですら、
小田原攻めの際には、本隊に配属されているのである。

昌幸の上洛時にこのブログでも書いたが、
真田昌幸は、形式は徳川の与力であるが、豊臣秀吉は直臣に近い扱いを受けている。
これは、真田信繁が人質として大坂に出仕していることも、関連しているであろう。

ライバル徳川家康を牽制した、秀吉らしい人員配置である。

豊臣秀吉は、聚楽第評議で発令した予定の通り、
天正18年3月1日に京都を出発し、
翌月の4月3日には、小田原に陣を進めている。
最初は早雲寺に陣をしいていたが、北条家の重臣、松田憲秀の内応により、
小田原城の西南、笠懸山に石塁を築いた。
これが一夜城とも呼ばれる石垣山の陣である。

秀吉は、石垣城で長期包囲作戦を取り、北条の首をじわじわと絞めていった。
自軍の大将達の倦怠を防ぐためという見地と、北条親子の戦意を削ぐため、
陣中での酒宴、遊行を認め、京と堺から商人や茶人を招くだけでなく、
秀吉は側室の茶々を小田原に呼び寄せ、諸大名にもそれを許した。
利休主催の大茶会や、茶々を連れての箱根の温泉旅行など、
前代未聞の華やかたる陣中となった。


そしてわれらの真田家であるが、
天正18年3月上旬、真田昌幸と信幸は上田城をから出陣し、「北国口」軍に合流した。
北国口軍の陣容は、上杉景勝1万、前田利家1万、真田昌幸3千 等 であった。

碓氷峠から上野へ入った北国口軍は、北条氏の重臣、大道寺政繁の守る松井田城を攻めた。

その戦況について、真田昌幸と信幸は秀吉にこまめに書状で報告を上げており、
秀吉からもそれに応えて、小田原の戦況を、これもまたこまめに知らせてきている。

その秀吉からの「小田原攻略記」ともいえる数枚の書状が、真田家に大切に保管されており、
小田原合戦の貴重な資料となっている。
秀吉と昌幸は共に筆まめで、文通相手のような不思議な関係にあった。
(一方、この当時より、家康と昌幸との手紙は皆無である。)

また真田信幸も父に倣って、秀次へ陣中見舞いの書状を出しており
た豊臣秀次から信幸あての書状も残されている。

尚、小田原征伐に関する真田昌幸、信幸あての豊臣秀吉書状はとても興味深く、
小田原攻めのリアルな様子が伝わってくる大変貴重な資料であるが、
枚数もあり、とても一度には書ききれないので、別途記事にしてご紹介したいと思う。


ここでは、概要を抜粋してみると、

4月14日の秀吉からの書状では、
本隊の小田原城攻めの軍勢は十分なので、小田原へ急ぐ必要はない。
心静かに、松井田城を攻め、敵を討ち果たすように命じている。

松井田城を四方から攻め、猛将 大道寺政繁が降伏して城が落ちたのは、
それから1週間後の、4月20日であった。

昌幸は、次いで、城主が逃亡した上野の箕輪城を受け取った旨を、秀吉に報告している。
そして秀吉からその返書が4月29日付で発せられている。
内容は、農民の帰住を固く申付けるとともに、
関東の風習として、城中下の女、子供の人身売買の禁止を固く命じている。

朝鮮の役や秀次事件の非情さとは裏腹の、秀吉の二面性であろうか。

実弟の秀長が秀吉の狂気を抑えていたと言われているが、
大河ドラマでは、寧さんと大坂城を守る病身の秀長の姿が描かれており、
わずかなシーンながらも、豊臣家の悲劇の予兆のようで、感じ入ってしまった。

北国口軍は、上野の諸城を次々と落とし、
北条氏邦が守る武蔵の鉢形城を取り囲み、6月14日にこれを落城せしめ、
6月23日には、武蔵の八王子城も攻略。
これにて、北条の敗北が濃厚となったのである。

北条の城が次々と落とされていくなか、
唯一最後まで落ちなかった城が、「のぼうの城」として有名な「忍城」である。

石田三成を総大将として、直江兼続、真田信繁(幸村)が先鋒として
攻撃に加わっている。
次回はここも描かれるのでしょうね?!
三谷幸喜版「のぼうの城」、楽しみである。


ところで「攻略」の回で、真田信繁が黄母衣衆として描かれている。
秀吉の黄母衣衆は、馬廻り衆から抜擢されていたので、あながち間違いとは言いがたい。

ただ、小田原城に単身直談判に向かったのは、黒田官兵衛で、
ついおととし、岡田准一君が小田原無血開城を熱演していただけに、
ここで信繁にその代役を務めさせるのは、正直ちょっと無理があったように思える。

ただ、信繁の小田原城潜入以外のシーンは、細かいところも含めて
ほとんど史実を描いていたのは、さすが三谷さんらしい。

石垣城の、秀吉、家康の立ちションシーンも史実。
でもそこにひとひねり加えて笑いをとるのも三谷さんらしい。

関ケ原合戦までの真田信繁(幸村)に関しての資料は、本当に少ない。
長丁場の大河ドラマで描くには、ある程度の想像と創造が必要だ。

だからこそ、無名のはずの真田信繁が、
石田三成や大谷刑部だけでなく、豊臣秀吉に厚遇され信頼を得ていたことを
その他の資料で推理し想像して作り上げていく作業は、大変であり、かつ面白いと思う。

ちなみに、「攻略」の回で、
秀吉、家康が立ちションしながら、「江戸と関八州を家康殿にお渡しする」と告げるシーンについて
ユーモアもさることながら、別の意味でちょっと感激してしまった。

幕末、徳川家のため忠義を尽くした新選組の近藤や土方は、関八州の八王子同心の子孫なのだ。

つい「新選組!」を連想してにやけてしまった。
しかも八王子同心は武田の遺臣達の末裔である。

佐藤彦五郎を演じた小日向さんと、風林火山の勘助を演じた内野さん・・・ね?!


そして、ネットでも騒がれていましたが、
小田原攻めで秀吉が着用していた青い羽根の陣羽織は現存している。

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秀吉の「蜻蛉燕文様陣羽織」
熱海神宮宝物館に所蔵されているそうだ。




伊達政宗の死に装束のエピソードもさらりと描かれていたが、
個人的にかなり好きな話なのでご紹介したい。
(実は過去何度か取り上げています )

伊達政宗と小田原の役

関白秀吉による再三の上洛命令も無視し、また「惣無事令」無視して芦名を滅ぼし会津を分捕った伊達政宗。
「伊達家は、鎌倉時代よりの奥州探題の家柄ゆえ・・」という理由で命令を無視し続けた。

秀吉は卑賤の出身。
伊達政宗が振りかざす名門のへ理屈が、秀吉の癇に障ることを知った上での挑発であった。

このとき政宗。若干23歳。
この豪胆ぶり。


しかし、北条攻めは長期戦となり、ただでさえ大名達の懐は厳しくなっていた。
もし、北条を討った後で、東北へ出陣ともなれば、軍の維持費だけでも相当なもの。

秀吉の側近達は、秀吉の暗黙の了解を得て、
伊達政宗懐柔を進めていった。
特に熱心だったのが、前田利家と浅野長政。

前田利家は自身が北国軍の戦陣にあっても、せっせと伊達政宗に書状を送り続けている。

秀吉の圧倒的な軍事力と戦況を知らせ、小田原城はもう落ちる。
落ちてから参陣しても手遅れだ。 と 説き続けたのです。

伊達政宗は、小田原の状況を知るにつけ、
そろそろ腹を決めなければ、伊達家の命運も尽きると覚悟を決めた。

しかし、伊達家は実母・義姫と実弟の伊達小次郎との確執を抱えており、
そのため長期間の遠征ができなかったという事情もあった。

母の義姫は、政宗ではなく弟の小次郎に家督を継がせようと画策。
「小田原への参陣」の挨拶に、義姫を訪れた政宗は、
母の差し出した膳で、あやうく毒殺されかかったといわれている。(異説あり)

政宗は、小田原へ出立する直前、
実弟・小次郎を殺害し後顧の憂いを絶った

同母弟の暗殺・・・
断腸の思いであったろう。

5月9日、伊達政宗は、側近の片岡小十郎らわずか百人ほどの手勢を率いて会津を出立。
しかし、北条領を迂回して甲斐・信濃路を通ったため、小田原へ着陣したのは、6月5日であった。

激怒する秀吉は、政宗を引見せず、箱根の底倉に監禁させた。
秀吉は、政宗を見せしめのため切腹させる腹積もりであった。

しかし、絶体絶命のピンチにあって、政宗は
「今生の思い出に千利休から茶を習いたい」と申し出る。

側室の茶々だけでなく千利休も呼び寄せていたことを政宗は知っており、そこに賭けたのだ。

秀吉の許しを得て利休は、伊達政宗に茶をたてた。
東北の田舎侍と思われていた政宗は、見事な茶さばきで対応
千利休は、政宗の風雅に、見事も魅了されたのであった。

利休だけでなく、前田利家も、浅野長政も、伊達政宗と秀吉との仲介を続けるうちに
この若者に惚れこんでしまっていた。

政宗の魅力は、彼ら側近達からも秀吉に伝えられ
ひとたらしの秀吉は、俄然、政宗に興味をもち、直接謁見することとなったのだ。

天正18年6月9日、
底倉で監禁されてわずか4日後、
豊臣秀吉は、小田原石垣山本陣で、大勢の大名達と共に、伊達政宗を引見した。

伊達政宗は、髪を切り、白装束で現われた。死を覚悟しているというパフォーマンスである。

派手好きの秀吉も、お得意のパフォーマンスで対応した。

平伏する政宗に向かって太刀(杖とも)を振り上げ、衆目が固唾を呑む中
肩のところでピタリと止め、

「政宗、よく来た!」と一喝、そしてあっさりと許したのである。

秀吉と政宗のこのど派手な引見劇は評判となり
政宗は、一躍人気者となった。

政宗は、秀吉に気に入られたものの、侵略した会津を召し上げられることを、承諾。
そして他の大名達と交誼をかわし数日後、小田原を風塵のごとく去っていったのである。

これぞまさしく、伊達者!

秀吉の惣無事令に違反しながらも ボタンを掛け違えた北条氏政との
運命の分かれ道であった。


TOP写真は、2015年7月に登城した、小田原城と山中城。
どちらも小田原征伐で落城した城。

【小田原~三島の旅】

特に山中城は素晴らしい史跡で大感激しました。

運動会

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昨日は中学校の運動会でした。

梅雨の晴れ間、
というより、真夏日のような暑さでの開催となりました💦💦

保護者席で観戦してても
くらりとするほど。

近くに座っていたママさんが、
熱中症のような症状で
ダウンされてました。

日本は熱帯になってしまったようです

中学生になると、
競技もぐんと迫力があり
まだ幼い息子との体格差に圧倒されました。

息子は相変わらずの運動オンチぶりを発揮しておりましたが、
運動観戦が好きなので、志願して
クラスの体育委員になり、
運動会では、用具準備など
裏方さんとして、忙しそうに動き回っつおりました。
そんな姿も成長の証…
じわじわと感激してしまいました


今朝は疲れで朝寝坊。
今日はゆっくり休んで体力回復。

次のイベントは、
な、なんと期末テスト

ハードな毎日
乗り越えて欲しいですねー。
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